アラムナイ・ストーリーズ第28回:藤原敬己さん

島根県のお寺の住職の息子として生まれた藤原敬己(けいぎ)さんは、ICUで生物学を学び、1968年に卒業しました。その後、ペンシルベニア大学で博士号(Ph.D.)を取得し、ハーバード大学医学部、ロチェスター大学、テキサス大学MDアンダーソンがんセンターなどで、研究者として輝かしいキャリアを築きました。今年3月、シアトルでJICUFの理事会と合わせて開催された同窓生・ご支援者との夕食会において、JICUFのスタッフおよび理事は、幸運にも藤原さんとお会いすることができました。
お寺の後継者がICUに進学し、さらにアメリカでキャリアを築くに至った経緯について、藤原さんにご寄稿いただきました。
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私は島根県の中国山地中腹にある小さな村の山寺に生まれた。代々住職の口伝え(寺伝)によれば、寺は応永年間(1394-1428年)の開山といわれているが、住職が常住するようになったのは江戸時代中期(1725年)であった。私が生まれた当時は祖父が23代目の住職で、父は高校の教師をしながら24代目として控えていた。私は長男として生まれたので、その時から25代目の住職として扱われた。小学校に入る前から、祖父や父に連れられていろいろな寺院行事に行ったのを覚えている。中学生になるとそうした訓練はなくなり、普通の子供として育っていった。
子供のころ仏教について何か教わったかというと、そういう記憶は全くない。一つ覚えているのは、実践することの大切さ、であった。何が実践なのか、それは父母や祖父母の日常生活を見て学んだような気がする。鮮明に覚えている2、3の例がある。私の子供の頃は第2次世界大戦直後で、頻繁に物乞いの人が寺を訪れた。その人らに対し母も祖母も玄関に正座し、丁寧に用件を聞いていた。ある人は食べ物を求め、ある人は寝る場所を求め、時には仕事を求めた。食べ物を求めた人にはその日にあったものを盛り付け本堂の縁側で食べてもらい、最後はお茶で終わった。食事中の扱いはお客様に対するもので、子供心にそうすることは当たり前で、不思議でも奇異でもなかった。
最も印象に残っているのは、ある日子供の私から見ると、母と同じぐらいの年に見える物乞いの人が、挨拶に出てきた母に無言で空のどんぶりを差し出したのを、柱の陰から見ていた。その女性は最初から深く首を垂れていて、一度も顔を見せなかった。母は空の入れ物を受け取り、台所できれいに洗い、先ほど昼食に食べた雑炊の残りを入れて渡した。女性はそれを手にし、母の目を見ることなく深々と頭を下げ、足早に去って行った。母は、「あの方はきっと良家の出身で、戦争で一人になってしまわれたのかもしれないね」と私に言った。
寝る場所を求めて来た人らには、それ用の布団が本堂の片隅にあり、その場所で寝てもらうようになっていた。本堂と庫裏は障子一枚でしか区切られておらず、親戚の人々が「不用心だから乞食を泊めるのは止めるように」と言っていたらしいが、寝場所を求める人が来る限り続いていた。仕事を求めて来た人は多くはなかったが、それでも数人はいたような気がする。寺の片隅に小屋があり、中には農具類の保管場所やニワトリ飼育場所、それに参拝者用の便所などが収まっていたが、加えて4畳半くらいの畳を敷いた生活場所もあった。仕事探しの浮浪者はこの小屋で生活し、我が家の畑仕事やまき割り、庭掃除などをしていくらかの賃金を稼いでいた。長い人は2-3か月いたと思うが、ほとんどの人は少しお金がたまると2、3週間で出て行った。
私がこのような経験をしたのは戦後5、6年の短い間であったと思う。小学生になった頃には物乞いに来る人はいなくなった。だが、その短い間に父母や祖父母が実践した、すべての人に分け隔てなく、同じ態度で接するということを、ねじり鉢巻きで勉強し納得するというような過程なしに、当たり前のこととして学んだと思っている。
先にも述べたが、父は高校教師で、その収入で一家を養っていた。私が高校生の時、父が1年間アメリカに留学できるAFS (American Field Service)と呼ばれる高校生のプログラムがあり、私に選考試験を受けて見ないかと、持ち掛けてきた。長い話は抜きにして、私もその気になり、急いで応募し、運よくアメリカ行きが決まった。アメリカの家庭で1年間家族の一員として生活し、高校にも通い卒業証書も貰った。この経験は私の人生を変えてしまうきっかけとなった。

一年間のアメリカ生活を終えた150人の高校生は、夏休み中にチャーター機で羽田に帰ってきた。半年後には大学受験という大問題が控えており、機内でもどの大学を受験するのか話し合った記憶がある。東大、京大、外大、などの名前に交じってICUというのがあったが、田舎育ちの私にはそれが何なのか知らなかった。黙ってみんなの話を聞いていたが、どうもその大学は普通の受験勉強では必ずしも合格できるとは限らないらしい、ということが解った。日本の高校に帰り、そうこうしているうちに、大学受験申請書を出さねばならなくなった。とりあえず受験指導部の先生に相談したが、「君の親父に相談しなさい」で終わってしまった。仕方なく親父に相談すると、その夜、両親が一通りの人生計画について話し合う時間を作ってくれた。翌日、図書館の受験雑誌でめぼしい大学の特徴や「傾向と対策」を調べたのだが、その中にICUも入っていた。東大を蹴ってICUを選ぶ学生が少なからずいるというのは、ICUがそれほどの魅力を持っている大学である証拠で、自分の将来をその大学に託してもいいのかもしれないと思った。
最大の問題は私が寺の子供で、ICUがキリスト教を掲げた大学であるということだった。かなりの間この問題の解決策を考えていたがどうにもならず、父母の意見を聞くことにした。ICU受験を打ち明けた時、最初は父も母も幾分思案する様子であったが、頭から反対する事は無かった。そのうち母が、宗教的背景に立つ大学で学ぶことは賛成で、人間をより豊かにすると思うと言った。父もキリスト教も仏教も人間として目指す究極は同じことだと思うと言った。また、両親ともICUの国際性が、戦争のない世界を作る事への貢献になるはずだとも言った。徹夜の話し合いを覚悟していた私だったが、相談は30分程度で終わってしまった。あとはICUの創立理念、入学試験、競争倍率、学費、などの話題となり、いとも楽しい親子談義となった。
1964年2月下旬、私は一人で東京に行き、ICU入学選考試験を受けた。一次、二次試験を無事に終え、東京の親戚に合格発表の掲示板を見てもらうよう依頼し、島根に帰った。合格発表は私の高校の卒業式の日であった。長い式典が終わり、お世話になった先生方に挨拶しようと、友人らと職員室に向かった。職員室の廊下の壁には、大学受験シーズンになると「祝 大学合格者名」と書かれた掲示板が掛けられていた。それとなく見ると、私の名前が書かれていた。合格発表を見てくれた東京の親戚が、私宛に高等学校気付で電報を打ってくれたのだった。その電報には「ゴウカク。ヨカッタネ」とあった。

ICUには言語学科に入学した。理由は、我々がいろいろな人と会話する際、相手が大人、子供、男性、女性、外国人、訛りのある人、などなど様々であっても、何を言っているのかが分かるのだが、それがどのようなメカニズムによるのかについて学びたいということだった。話し言葉は音なので、いろいろな人が発する音のどこかに共通した要素があるであろうとは思ったが、それが何であるのかをできれば研究したいと思った。エゲ教授が私のアドバイザーだったので、さっそく彼のところに行ってコースの選択などを相談した。ところが彼の返事は、ICUではそのようなことを教える人も研究している人もいない。生物か物理の教授に相談したらというアドバイスであった。いろいろ考えた挙句、言語の理解には神経や脳の働きが欠かせないと思い、生物学への鞍替えを決めた。
さてICUに入ったのは良いが、キリスト教についての知識は皆無であった。皆無というか思ったことも考えたこともなかった。入学して間もなく2-3回日曜日の礼拝に行ってみた。一口に言えばそれはプロの世界であった。そこにいた私以外の人らには共通する何かが既にあるように思えた。キリスト教について何も知らない(即ちプロでない)人がいきなりそこに行っても、すぐには役に立たないように思われた。そこで次に、英語を教えておられたアメリカ人の老婦人教授のバイブルスタディに行ってみたが、これもプロの世界で、みんなの会話が頭の上を飛んで行った記憶がある。私が住んでいた寮には敬虔なキリスト教信者の先輩もいて、いろいろ訊いてみた。ある人は、とにかく聖書を読むこと、そしてその内容に疑問を持たずすべてを認めることができるようになるまで繰り返し読みなさい、と教えてくれた。またある人はとにかく教会に行きなさい。次第に分かるようになるとのアドバイスであった。最後に生物学教室の先輩に訊くと、ICUでの日常生活の中には沢山のキリスト教を学ぶヒントがあるので、それを見つけ出すことを積み重ねていけば、自然にキリスト教の姿が見えると思うと言ってくれた。この助言は私にとって大きな二つの意義があった。一つは、キリスト教を学ぶという命題を大上段に構え、聖書を繰り返して読んだり欠かさず教会に通うなどをしなくてもよさそうだということ。二つ目は、キリスト教の精神が様々な形でICUの生活の中にあるということであった。
入学してまず気付いたのは、ICUで働く人々の学生や互いに対する優しさと思いやりであった。事務の人、図書館の人、売店でも郵便局でもキャンパスの手入れをする人らも、総じてであった。デパートや銀行に行くと形の上では同じような扱いを受けたが、それは訓練されたものであり、従業員の大部分が同じ言葉遣いで客に話しかけていた。だがICUの人々のそれは自然で、それぞれの人から出てくる飾らない対応であった。勿論これはICU キャンパスという小さな限られた空間で起こっている現象(small village effect)であると言えるかもしれないが、私はそれだけではないと感じた。
同じような優しさや思いやりは多くの教育スタッフからも感じられた。例えば学生が被教育者として見られているのではなく、平等な個人として扱われているのだと感じた。授業では対話が重視され、また度々教授宅を訪問したり、食事を共にする機会が持たれていた。簡単に言えば平等な立場に立った友達付き合い的であり、それまで私が経験した教師と学生の間に見られた上と下、あるいは教える側と教わる側という関係ではなかった。今も鮮明に覚えているのは、植物生理の教授が有機化学専攻の4年生と二人で、細胞内で起こる様々な生化学反応の反応メカニズムを勉強されていたことで、二人で黒板に反応式を書きながら、ああだこうだと議論しておられた。まさに教授と学生が対等の立場で論じ合っておられた。多くの教授陣はキャンパスに住んでおられ、著名な遺伝学者の教授は毎週オープンハウスをしておられ、学生もスタッフもよくお邪魔した。時々、生物学教室以外の人もおられ、様々な話をしながら奥様がお勧めになるお茶とおいしいお菓子を食べた。話にはキリスト教の「キ」の字も出て来なかったが、私にはいろいろな意見や発言の根底にはキリスト教の精神があるように感じられた。それは見返りを求めない優しさ(慈愛)、平等の精神、そして寛容さであった。これらの人間として備えていたい要素は仏教でも同じで、父が言った「仏教もキリスト教も究極は同じ」ということであり、また母が言った、人間形成における「宗教的背景を持つ大学で学ぶ意義」であると今も思っている。

私にとって宗教とは難しい哲学的議論や荘厳な儀式や奇跡を信ずることなどではなく、日々の生活、特に人との付き合いの指針だと思っている。この信念は子供の頃の体験やICUで気づいたことなどによる。争いごと、弾圧、政治などが宗教により正当化されるとすれば、それは宗教ではない。私がペンシルバニア大学院の学生であったころ、老いたフランス人のプロテスタント牧師と、お亡くなりになるまでの数年間、親しく話し合うことができた。その人はよく「毎日がクリスマスであってほしい」と言っておられた。これは、毎日キリストの生誕を祝うとか、教会に行くとか、プレゼント交換をするなどということでは決してない。アンドレ・レヴィ・アルヴァレスさんが言わんとしたことは、すべての人に、多くのクリスチャンがクリスマスの日に共有する、他人への優しさ、心遣い、労い、そして自分が生きていることへの感謝、こうした気持ちを毎日持ち、それを実行してほしいということである。
ICUの教育は、私がペンシルバニア大学院で博士号(Ph. D.)取得し、その後ハーバード大学医学部で11年間、研究と教育に携わることを可能にした。更には日本の国立循環器病センター研究所で形態部を立ち上げ、優秀な若い研究者らとともに、細胞の機械刺激受容メカニズムの研究を進め、我々のグループの存在を世界にアピールできた。2000年に再びアメリカに帰り、ロチェスター大学医学部、テキサス大学MDアンダーソン癌センターと渡り歩き、2021年に現役を退いた。島根の山奥で生まれた私が、半世紀以上に渡り生物医学の研究教育者として働くことができたのは、父と母の寛容さと、ICUで受けた教育なしではできなかったと固く信じている。
ICUは基督教大学でありながら神学科を持たず、Internationalでありながら国際学科の無いユニークな大学だ。でもそうした学科が無くてもこの二つの精神は力強くその教育とキャンパス生活に生かされている。この二つの理念に基づいた教育がこれからも続いていくことを願い、短期的には、昨今の乱れた世の中にあって我々ICUアラムナイが、それぞれの立場で様々ないさかいや地球保護などの問題の解決に向けた努力を積極的に進めることが大切だと思っている。

追書:島根の山寺がどうなったのかを心配されている方々に申し上げます。25代目の住職は埼玉県在住で僧侶の資格を持っていた弟が引き継いでくれました。弟と2人で26代目の住職を探し、若い僧侶を見つけ出し、面接や資格取得などで10年かかりましたが、2年前に26代目が無事誕生いたしました。
